チベット問題再考

 私はオリンピックに興味がない。北京生まれ、清華大学卒だが、この十何年間パスポートなしの無国籍アナーキストで、中国に帰ることができない。もう一つの理由は、日本で電通グループに勤めていた時、スポーツイベントの仕事に携わって、その商業性をよく知っている。
 郭平博士(彼は二十年前から王炳章博士などと一緒に中国民主運動を立ち上げた)が呼びかけて、四月十九日のサンフランシスコでのオリンピック集会に中国の民主・人権アピールに行こうと聞いた時、私は賛成しなかった。私はすでに清華校友会、南開校友会、シリコンバレー中国人工程師協会などの電子メールのリストで、中国領事館が大規模集会を組織していることを知っていた。だから私たち数人は、万人規模の親中国政府の同胞との対立を避けたほうがよいと考えていた。郭平は、「ここはアメリカだ」「私たちが抗議しないと、中国国内の自由のない人たちに申し訳ない」と力説した。そして、私たちは「釈放胡佳」「釈放王炳章」「人権」などのサインを用意して行った。
 私はアメリカの友人のボートに乗って、サンフランシスコ湾東側から出発してサンフランシスコに行った。集会の出発場所に近づくと`人山人海aの中国国旗が見えた。海岸警察のボートは私たちを阻止した。ほかに三つの「Free Tibet」の ボート、一つの親中国政府系ボートがあった。私たちのボートには「人権」と五輪鉄鎖旗を掲げていた。空には六機のヘリがあった。
 私たちは幸せだった。郭平たち六、七人は大勢の親政府中国人に包囲され、喧嘩した。何者かが旗で郭平の後頭部を叩いて出血させた。警察を呼んできたがとてもコントロール不能で早く逃げるしかない。それは私が一九九二年に東京で、日本政府に雇われた中国人に殴打されたことを想起させた。
 この事件はチベット問題を再考させた。一九八九年にダライ・ラマがノーベル平和賞を受けた時に大笑した。あれは私たち天安門民主化運動に与えるべきと思った。ちょうどこの頃、馬少方という天安門民主化運動の学生組織者が初めて訪米してきた。彼は回族(イスラム教)という立場でチベット問題をよく研究した。一カ月もラサに滞在した。結論は「あなた方漢族とチベット族は現ダライ・ラマの死後は、永遠に和解不可能だ」ということだった。
 たしかに私を含めてほとんどの中国人は、アメリカ、日本はもちろん南米やアフリカのことをかなり知っているが、チベットに対しては無知と偏見というしかない。中国語より英語文献のほうがチベットの真実に近い。私は「A Tibetian Revolutionary: The Political Life and Times of Bapa Phuntso Wangye」(「チベット人革命家:バパ・プンツォク・ワンギェルの政治生活とその時代」)という本を一気に読み終えた。(注)
 彼は中央政府とダライ・ラマ政府の間の翻訳者・通訳として一九五九年反乱後チベットで最高のチベット人指導者であった。後に十八年間投獄されたこともあった。彼の見解はソ連のように、チベットが一つの共和国として「中華連邦」にとどまる、というものだった。それは「毛沢東思想」よりマルクス主義・レーニン主義に近いが、おかしなことにダライ・ラマより「反動」であるとされた。実は、彼は五九年反乱も中央政府に主な責任があると断罪した。まさしく彼はチベット人だった。
 チベット流亡政府のウェブサイトを初めて訪問した。中国語にもかなり訳されている。いわゆる「封建的農奴支配」などの反動的性格はよく自己批判されたようで、少なくとも紙面上から見ると、かなり民主的である。事実、流亡半世紀になって「農奴支配」はもはや不可能である。
 チベット問題は国際的な関心、圧力が不可欠だが、中国の民主化なしには解決できない難関であると痛感した。 

(編集部注)明石書店から『もうひとつのチベット現代史 プンツォク=ワンギェルの夢と革命の生涯』が出版されている。阿部治平著、6500円。

Jing Zhao, 08年6月29日, San Ramon, USA

かけはし2008.7.21号 http://www.jrcl.net/frame080721g.html